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写真の難しさ

昔、写真を練習したいと思っていて

なにか撮るものがないか
いつも考えていたときがあって
しばらくそうしていた頃、

構図など、撮ることばかりに気を取られ

旅行に行っても、自分がそこにいることを
しっかり感じて噛みしめられていないような、

また、人に会っても
その人と会う、対話をすることに
しっかり重きを置けていなかったような、

その場を写真の手段にしてしまったような気がして
ちょっと反省したことがあった。

写真をうまく撮れた思い出や
それで褒められることよりも

自分にしかない感覚で
その場にいたことや
誰かと会ってしっかり対話して

気持ちが豊かになったことを
心の引き出しにきちんとしまっておきたい。

記録の意味もあるけれども
趣味で撮る写真は表現手段だから、

何か伝えたい気持ち、思い入れがあってこそ
自分にとって意義深いものになる気がしていて。

それに
撮る対象が、風景でも人でも物であっても

それらと自分との関係性や
その時の心情は、意外と結構映ってしまう。

記録を残すなら、本質をおさえた上で
「今」にきちんと足をつけた上で撮りたいし

そうできる位、コンディションの良い自分を
キープしたい。

読書の効き目

見た目も大人だし、
仕事もしっかりできるのに
いざ精神的な話になると
幼く感じる人がいる。

世の中にごまんとありふれた悩みに
深く悩まされてたりして

なんでかなあと思っていたけど
もしかしたら、読書量が少ないのかな。

悩みは
相対化したもん勝ちだと思うのだけど
​本を読まないとそれが
上手にならないのではないか。

友人や家族など、直接に話す相手で
それを補える人もいると思うけど

それには
傾聴力とかコミュニケーション能力、
本音が聞ける関係の構築力はもちろんのこと、

真面目な議論ができる状況を作り、
お互いの時間の都合を設定するところまで
揃わなければならないから
なかなかのハードルである。

これをすっ飛ばせるのが読書だ。

本を読むと
色んな人の感じ方や思い、悩みを
知ることができる。

普通にしていたら
相当親しくなるまで話してもらえないような
赤裸々な経験や本音を知ることができる。

そうすることで
自分の置かれた状況や悩みを相対化して
客観的に俯瞰できるようになるのかなと。

最近、自分の考えを熟成させるために
あえて本を読んでいなかったけれども

やっぱり、また程々に読んでいこう。

今着たいもの

​昔は機能性よりも
デザイン性に惹かれて
服を買っていた気がするのだけど

今は断然機能性だ。

色は今もこだわるけど
デザインはシンプルなものが好き。

ヒラヒラやリボンがついていると
そこが乾きにくかったり
取れたり壊れたりしたら
嫌だなーと思うし

何枚も重ねて着るのは面倒だから
胸が空き過ぎない
一枚で着られるものを選ぶ。

受験勉強で
合理性を追求する考えに
偏ってるのかな。

あと自分の顔が地味ではないと
人から言われて気付いたので

それであれば尚更、
服はシンプルがいいだろうと思って。

全体のバランスはとても気になる。

それから
視覚効果を信頼してて
色の優先度は高め。

すごくピンと来た色味だと
何年経っても気分を高めてくれるから。

やっぱりファッションは
生き方が出ると思う。

てらいなく、ストレートな感じで
でも、つまらなくないというか

どこが良いのか説明しづらいけど
なんか良いよね、ってのが理想。

もう、ほとんど持ってる

​答えが自分の外にあると思ってたときは
しんどかったけど

自分の中の答えを信じる決意をしてからは
生き心地がすごく良くなった。

本を読まなくなったから
良くないようでいて
しっかり自分の内側に
耳を傾けられるようになった。

本はどの程度読むべきなのか
何かを取り込もうとし過ぎてたのか、

また試行錯誤が必要である。

独自のメニューを

合理的なのが好き。
無駄が嫌いである。

と思ってた。
厳密には、今もかなり思ってる。

けど、
あまりに合理主義に走ると

自分である必要がなくなってしまう
ってのは
心に留めておかなければ。

合理性を突き詰めると
誰でもいいことになってしまう。

仕事上では
良い面が沢山思いつくけれど

プライベートで
自分である必要がないなんて
精神崩壊である。

無駄にしか
個性は宿りづらい。

生きる上では
自分である必要があるし、
人と関わるための魅力は
個性の中にしか宿らない。

やらなくても良いことなのに
無駄だけど、なぜだかやりたいこと。
それでしか発散できないことがある。
それでしか満たせない部分がある。

人から見たら不可解であったり
どうでもいいような非合理的な趣味は
生きる上で大切にした方がいい。

そういうものが
真に内面を満たしてくれるものである
可能性が高いから。

世の中にあふれてる既存のメニューが
自分を満たしてくれるとは
限らないことを

しっかり覚えとかないと
ただ振り回されてしまう。

どう役立つか

​話したら意外がられそうだけども

日常的な楽しみとして
何気なく喜ばれるのも嬉しいけれども

どちらかというと
本気で何かを考えたいときとか
いざ困ったときとかに
役に立ちたい。

楽しい人って評価もありがたいけど

それって
相手の方の人柄が良くて
私がそのとき気分が良かっただけな気もするし

あんまり期待に応え続けられる自信は
元からないかも。

それよりは
いざって時の方が
期待に応えられる気がするし

是非とも応えたいって思う。

東京の子

​って、京都に住んでる従弟のお兄ちゃんが
昔、私のことを言った。

何のことか、さっぱり見当がつかなかったけど
今なら、なんとなくわかる。

私は、東京らしいキラキラ感が好きだった。
今も嫌いではないけれども
たまに、でいいなと思う。

雑誌を月に何冊も買って
おしゃれを追求していたけれども

今は、自分らしく
居心地良くいられるのが一番いい。

私が自分の資本主義漬けに
気付くことができたのは
大阪転勤があったから。

移住しなければ
全くピンと来なかったし

都内近郊にしか住んだことのない人には
なかなか伝わらない感覚。

社会が資本主義に熱狂しているのは、
都内近郊だけかもしれない。

日本は地方都市にも
莫大な数の人がいて
都心は極々僅かな一部だということ。

まずこれがピンと来ていなかった。

都内の一部の人達が良いと思っても
地方では共感を得られないことは
思った以上に沢山あるんだなと

地方の人なら当たり前のことに
ピンと来ていなかったことは

じわじわくる衝撃だった。

言い換えれば
コンフォートゾーンを出ずに
一生を終えたい人達と
コンフォートゾーンを出て
次から次へと高揚感を得たい人達。

コンフォートゾーンには
良くも悪くも
伝統の継承であったり、
年功序列や男尊女卑の感覚を含む。

経済社会では、
コンフォートゾーンを出てもらった方が
モノが売れるので都合がいい。

社会の活性化のためには
高揚感に煽られてもらった方が
都合がいいのだ。

そして、より高揚感に煽られてくれそうな
若い世代にスポットが当たる。

ずっと東京近郊にいる私には、
これが当たり前の風景だった。

けれども、地方の田舎では
パワーバランスが変わる。

コンフォートゾーンを出ましょうと
声高に叫んだところで
反応は寂しいものになる地域もあるはず。

マーケティングの目的も
当然変わる。

実際、地方都市では関東よりも
お年寄りが元気である。

最近も、地方都市に遊びに行ったとき
街で80歳過ぎと思しき老人に
まったく言われのないことで
突然強い調子でなじられたことがあった。

関東ではなかなかないことだと思った。

もちろん良い面もあって

よく関西に行くのだが
お年寄りが電車でかなりの音量で話していたりと
驚くほど元気だ。

ただ仕事上では
非合理的だと色々困るから

理屈で考えれば
東京と同じようにするのが
良いはずなのでは?

だけど、なかなかそうならないのは
予算の問題かな、と昔は思っていた。

けれど
ことはそんなに簡単でないようだ。

地域活性化にすぐにでも関わりたいと
興味を持っていたが

コンフォートゾーンを出たくない人達と
新しい試みをすると考えると

自分が思ったていたよりも
はるかにハードルが高い。

今のままでは圧倒的に勉強不足だと
考えるようになった。

しかも
年功序列や男尊女卑の感覚の中だと

童顔で気さくな私は
資格でも取らない限り
舐められるというか、
ただのオネーちゃん扱いされるだけで
なんの影響力も持てないとも感じた。

そんな悔しさも手伝って
今がある。

本質に関わりたい

​経歴を話すとき

広告系で不夜城な毎日だったので
マーケの専門家は諦めました

って説明するのだけど、
これは本当なんだけど
半分は嘘なのかもしれない。

マーケティングに
一度ガッツリ関わってみて感じたのは
ちょっとした無力感だった。

思っていたよりも、
影響範囲が限定的だったというか。

スケール的にも物足りなかったし

このサービスを知らしめるには
 そもそも懸賞が必要なのかな?
見せ方も考えないとだけど
 そもそもこの商品のここは改良しなくていいの?
おたくの会社の強みからすると
 これじゃなくて、あの商品に力を入れなくていいの?

みたいな、そもそもの
前提についての疑問が拭えなかった。

仕事だから仕方ない面はあるとしても
私にとっては謎が多い割に

時間的に激しく生活が削り取られる毎日に
将来を考えられなくなった。

しかも、人間行動については
理屈ってしばしば無力な面がある。

オンラインで色々と数値化できても
なぜ買ってくれたのか、
理屈を後付けすることはできても
真の理由は解明しきれないことも多い。

もちろんマーケによって窮地を救えることだって
沢山あるはずで
重要な要素であることには間違いないけど

あくまでも二次的要素で
そのモノやサービス自体の良さが本質になる。

結局、私は間接的に役立つのでは物足りなくて
直接的にブレーンとして関与したいのだろう。

ビジネスそのものに
もっと関わりたいと思う。

どう見せるか(マーケ)より
何をなすのか(経営)の方に。

どう見せるか、が惜しいビジネスも多いから
色々気にはなるんだけど
生業として関わるのは、ちょっと違ったみたい。

関心事が多過ぎて
結局何がしたいのかが見えづらくて
遠回りや道草ばかり。

何かが蓄積されてるといいなあ。

大丈夫、両方あるはずだよ

いいことばっか書いてるとさ
自分にとっても
他人にとっても多分
ちょっと息苦しく感じることがある。

イマドキの啓発本にありそうな
ポジティブシンキング教には
懐疑的である。

いいこと書いて
自分で疲れるのも、人から僻まれるのも

もしかしたら
ダメなことをカンペキに隠してるから
じゃないかって最近思う。

ダメなことだって絶対あるはずだから
両方出した方がいいと思うのだ。

確かにネガティブなことは
あんまり書かない方が
社会的には自立してそうに見えて
一見、良さそう。

けど、ダメなことゼロだと
さほど共感できないんだよね。

てことは、
生き様をある程度さらすのが大事だろうし
さらせるだけの生き方をしないとって気になる。

実際には、いいことばっかなはずはなく
やなこともあり、
いいことも時々あり、

あとはフツーのことが沢山、ってのが通常で
ただ部分的に切り取ってるだけ。

わからないけど
全面的に表現してしまえば
違和感持たれずにナチュラルに
共感を得られると思うのだ。

いいことばかり書いてると
どうしても、自分のために書いてるように
見えることがある。

かと言って、
よくないこと沢山書いて

なんか病んでるのかな、とか
依存系の人なのかなって
誤解を受けるのが心配ってのは
あるけれども。

分量をバランス良く書くのは
大事かもね。

まあ、まだしばらく私は
ここでしか書かないと思うけど。

ゾーンに入るには

​完全に自分のペースでなければ
入れない気がする。

多分そうやって
今まで勉強してきた気がする。

それを超えたスピードや量を
こなそうとした途端に
進捗度ばかりに意識が向いてしまって

手段の目的化が発生し
その内容自体に浸かれない。

理解が深まらない、
ダメなスパイラルに入る。

とにかくどっぷり浸かることが
目的なのだから
しっかり自分のペースに
入りきらないといけない。

勉強始めて1年目は
とにかくスピード合格を目指して
速さと量ばかりに意識を向けていたからか

理解が深まる実感が薄くて
焦るばかりだったし

自分の気持ちを置き去りにして
長時間勉強したことで
さらに苛々が募っていたと思う。

あれは自分に合わないダメな方法を
自ら選んでしまってたんだと今は思う。

何でもそうだけど、渦中にいると気付けない。
一歩引いて冷静になったときに、ふと気づく。