月別アーカイブ: 2017年10月

東京の子

​って、京都に住んでる従弟のお兄ちゃんが
昔、私のことを言った。

何のことか、さっぱり見当がつかなかったけど
今なら、なんとなくわかる。

私は、東京らしいキラキラ感が好きだった。
今も嫌いではないけれども
たまに、でいいなと思う。

雑誌を月に何冊も買って
おしゃれを追求していたけれども

今は、自分らしく
居心地良くいられるのが一番いい。

私が自分の資本主義漬けに
気付くことができたのは
大阪転勤があったから。

移住しなければ
全くピンと来なかったし

都内近郊にしか住んだことのない人には
なかなか伝わらない感覚。

社会が資本主義に熱狂しているのは、
都内近郊だけかもしれない。

日本は地方都市にも
莫大な数の人がいて
都心は極々僅かな一部だということ。

まずこれがピンと来ていなかった。

都内の一部の人達が良いと思っても
地方では共感を得られないことは
思った以上に沢山あるんだなと

地方の人なら当たり前のことに
ピンと来ていなかったことは

じわじわくる衝撃だった。

言い換えれば
コンフォートゾーンを出ずに
一生を終えたい人達と
コンフォートゾーンを出て
次から次へと高揚感を得たい人達。

コンフォートゾーンには
良くも悪くも
伝統の継承であったり、
年功序列や男尊女卑の感覚を含む。

経済社会では、
コンフォートゾーンを出てもらった方が
モノが売れるので都合がいい。

社会の活性化のためには
高揚感に煽られてもらった方が
都合がいいのだ。

そして、より高揚感に煽られてくれそうな
若い世代にスポットが当たる。

ずっと東京近郊にいる私には、
これが当たり前の風景だった。

けれども、地方の田舎では
パワーバランスが変わる。

コンフォートゾーンを出ましょうと
声高に叫んだところで
反応は寂しいものになる地域もあるはず。

マーケティングの目的も
当然変わる。

実際、地方都市では関東よりも
お年寄りが元気である。

最近も、地方都市に遊びに行ったとき
街で80歳過ぎと思しき老人に
まったく言われのないことで
突然強い調子でなじられたことがあった。

関東ではなかなかないことだと思った。

もちろん良い面もあって

よく関西に行くのだが
お年寄りが電車でかなりの音量で話していたりと
驚くほど元気だ。

ただ仕事上では
非合理的だと色々困るから

理屈で考えれば
東京と同じようにするのが
良いはずなのでは?

だけど、なかなかそうならないのは
予算の問題かな、と昔は思っていた。

けれど
ことはそんなに簡単でないようだ。

地域活性化にすぐにでも関わりたいと
興味を持っていたが

コンフォートゾーンを出たくない人達と
新しい試みをすると考えると

自分が思ったていたよりも
はるかにハードルが高い。

今のままでは圧倒的に勉強不足だと
考えるようになった。

しかも
年功序列や男尊女卑の感覚の中だと

童顔で気さくな私は
資格でも取らない限り
舐められるというか、
ただのオネーちゃん扱いされるだけで
なんの影響力も持てないとも感じた。

そんな悔しさも手伝って
今がある。

本質に関わりたい

​経歴を話すとき

広告系で不夜城な毎日だったので
マーケの専門家は諦めました

って説明するのだけど、
これは本当なんだけど
半分は嘘なのかもしれない。

マーケティングに
一度ガッツリ関わってみて感じたのは
ちょっとした無力感だった。

思っていたよりも、
影響範囲が限定的だったというか。

スケール的にも物足りなかったし

このサービスを知らしめるには
 そもそも懸賞が必要なのかな?
見せ方も考えないとだけど
 そもそもこの商品のここは改良しなくていいの?
おたくの会社の強みからすると
 これじゃなくて、あの商品に力を入れなくていいの?

みたいな、そもそもの
前提についての疑問が拭えなかった。

仕事だから仕方ない面はあるとしても
私にとっては謎が多い割に

時間的に激しく生活が削り取られる毎日に
将来を考えられなくなった。

しかも、人間行動については
理屈ってしばしば無力な面がある。

オンラインで色々と数値化できても
なぜ買ってくれたのか、
理屈を後付けすることはできても
真の理由は解明しきれないことも多い。

もちろんマーケによって窮地を救えることだって
沢山あるはずで
重要な要素であることには間違いないけど

あくまでも二次的要素で
そのモノやサービス自体の良さが本質になる。

結局、私は間接的に役立つのでは物足りなくて
直接的にブレーンとして関与したいのだろう。

ビジネスそのものに
もっと関わりたいと思う。

どう見せるか(マーケ)より
何をなすのか(経営)の方に。

どう見せるか、が惜しいビジネスも多いから
色々気にはなるんだけど
生業として関わるのは、ちょっと違ったみたい。

関心事が多過ぎて
結局何がしたいのかが見えづらくて
遠回りや道草ばかり。

何かが蓄積されてるといいなあ。

大丈夫、両方あるはずだよ

いいことばっか書いてるとさ
自分にとっても
他人にとっても多分
ちょっと息苦しく感じることがある。

イマドキの啓発本にありそうな
ポジティブシンキング教には
懐疑的である。

いいこと書いて
自分で疲れるのも、人から僻まれるのも

もしかしたら
ダメなことをカンペキに隠してるから
じゃないかって最近思う。

ダメなことだって絶対あるはずだから
両方出した方がいいと思うのだ。

確かにネガティブなことは
あんまり書かない方が
社会的には自立してそうに見えて
一見、良さそう。

けど、ダメなことゼロだと
さほど共感できないんだよね。

てことは、
生き様をある程度さらすのが大事だろうし
さらせるだけの生き方をしないとって気になる。

実際には、いいことばっかなはずはなく
やなこともあり、
いいことも時々あり、

あとはフツーのことが沢山、ってのが通常で
ただ部分的に切り取ってるだけ。

わからないけど
全面的に表現してしまえば
違和感持たれずにナチュラルに
共感を得られると思うのだ。

いいことばかり書いてると
どうしても、自分のために書いてるように
見えることがある。

かと言って、
よくないこと沢山書いて

なんか病んでるのかな、とか
依存系の人なのかなって
誤解を受けるのが心配ってのは
あるけれども。

分量をバランス良く書くのは
大事かもね。

まあ、まだしばらく私は
ここでしか書かないと思うけど。

ゾーンに入るには

​完全に自分のペースでなければ
入れない気がする。

多分そうやって
今まで勉強してきた気がする。

それを超えたスピードや量を
こなそうとした途端に
進捗度ばかりに意識が向いてしまって

手段の目的化が発生し
その内容自体に浸かれない。

理解が深まらない、
ダメなスパイラルに入る。

とにかくどっぷり浸かることが
目的なのだから
しっかり自分のペースに
入りきらないといけない。

勉強始めて1年目は
とにかくスピード合格を目指して
速さと量ばかりに意識を向けていたからか

理解が深まる実感が薄くて
焦るばかりだったし

自分の気持ちを置き去りにして
長時間勉強したことで
さらに苛々が募っていたと思う。

あれは自分に合わないダメな方法を
自ら選んでしまってたんだと今は思う。

何でもそうだけど、渦中にいると気付けない。
一歩引いて冷静になったときに、ふと気づく。

じぶんの充電方法

どうしたら自分は満たされるのか

それを煮詰められて
ある程度、解明できたことが
このブランク期間の最大の収穫だと思ってる。

いかに生きるか、を
洗いざらい見直したというか。

資本主義経済に合わせて
仕事はせざるを得ないけど
それだけでは消耗してしまう。

だから、社会に迎合しない活動を
迷惑かけない範囲で、定期的にすることが
意外と大事なんだよね。

社会人である限り、
評価にさらされるし、

どう伝えるか、
どう伝わるか、
どう見せるか、
どう見えるか、など

自分なりに管理しないといけない面は
必ず出てくるけど

相手目線ばかりを気にしていると
自分目線が置き去りになり

段々窮屈になってしまうし、
心がスカスカになって
全然満たされなくなる。
周りからはエラく見えるかもだけども。

ほんで、密度が落ちた自分からの発信て
自分で納得いかないし
自信なくなってきて
なんかツラくなってくる、
みたいなことがあった気がする。

やっぱり、健やかな発信ができる自分を
キープするには、ケアやメンテが欠かせない。

よーく考えると
まあ、当然そうだろうなあって感じなんだけど

渦中にいると
何がなんだかわからなくなったりしてね。

例えば
誰にも理解してもらえない
かもしれないことでもいいから

気になることや
モヤモヤすることを

誰の目線をも気にすることなく
自分なりに納得するまで
深く追求すること。

本音にきめ細かく対応すること。

背伸びしないこと。大人ぶらないこと。

今を目的にいること。

素朴な気持ちで
自分の内側にしっかり帰ること。

多分そうゆうのを積み重ねてれば
大丈夫な気がしてる。

ただそこにいるということ。

​人の役に立たないと
自分の価値が感じられないのは
病的である。

って
自分に時々言い聞かせる。

命の存在って、
そのもの自体に尊厳があって
尊いものであるはずなんだよね。

成長したいとか
向上したいとか
それも大事なんだけど

一方で、そうでない側面もあるんだよってことを
ただそこに存在することが大事なんだってことを
しっかり認識しとかないと

無意識に差別とかしてしまいそうだし
それって下品だなと。

成長や向上って苦労を伴うことが多いから
つい、それが偉いって思いたくなる。

けど、そうしたいからしてるだけで
幸い、そうできる状況が自分には整ってるってだけで

そこに偉いとか、偉くないとかって話は
必要ないんだってこと。

「今」は手段じゃない。

​キャリアビジョンを描くと
一見、計画性もあって
素晴らしいようにも見えるし

自己啓発本にも正解として
よく書かれてそうだけど
簡単に「今」が手段化してしまうのが問題。

人生って
本来「今」を目的にしとかないと
精神的なバランスが崩れやすい。

「今」を目的として生きた時間の積み重ねこそが
生き切った満足感につながるんじゃないかって
思ってる。

だから、あんまり先まで
考えるのではなくて
「今」楽しく真剣に取り組めるものを選びたい。

ロマン?

​私は社会的大義を
ぼんやりとでもいいから持ってる人が
男女問わず、人として好き。

意識的に社会に関心を持った上で問題意識を持って
自分の人生をかけて
なんらか貢献したいと思っていて、
部分的にでも行動に移していること。

そういうの惹かれる。

視野を広く持っていないと
そうはならないし

自然と沢山の人と関わるだろうから
多様性を受け入れる器も磨かれてそうだし。

視野を広く持っているから
変に自分のことばかりで
頭がいっぱいになることも少ないだろうし。

やっぱり、どう考えても
私にとっては
かっこいいのであります。

そんな人達とたくさん出会えるように
私も想念を磨いておかないとなあ。

私が勉強するのは

自分を救いたいからかも。

身近に
本当に知りたいこと、
本当に話したいこと、
本当に聞いてほしいことを
ぶつけられる相手を
子供時代に見つけるのは
なかなか難しかったりする。

そんな中で
教育学
社会学
心理学
哲学
これらがとっても
自分を救ってくれたと思う。

学問に没頭してると
すごく神聖な気持ちで
時空を超えて
清々しい気持ちになれるからいい。

そんで、すべてを救うことはできなくても
一定程度救われた自分なら
人のことも救えるだろう、みたいな。