もう駄目なんじゃないかと思うのが
一瞬早い傾向にあるところを直したい。
前回の試験も、
採点してみたら、意外にあとちょっとで
諦めが少し早かったのかなと思うフシがあり
反省した。
中学受験のとき、
解けない問題を諦めるのが早すぎると
塾の先生から言われたことがある。
見込みがないことを追いかけるのは
嫌だけど、
私の場合は、見込みがなければ
そもそも始めてないから
ただただ、無駄なことを考えずに
愚直に突き進めばいいだけなのだと
言い聞かせて前進していきたい。
もう駄目なんじゃないかと思うのが
一瞬早い傾向にあるところを直したい。
前回の試験も、
採点してみたら、意外にあとちょっとで
諦めが少し早かったのかなと思うフシがあり
反省した。
中学受験のとき、
解けない問題を諦めるのが早すぎると
塾の先生から言われたことがある。
見込みがないことを追いかけるのは
嫌だけど、
私の場合は、見込みがなければ
そもそも始めてないから
ただただ、無駄なことを考えずに
愚直に突き進めばいいだけなのだと
言い聞かせて前進していきたい。
素朴さで人の心を打って
世に出るってのは
なかなか難しいもんなのかねぇ。
世に出るには
計算上手じゃないと
難しいのかなあと
少々複雑な気持ちになった。
ネットでは姿を見せていないのだけれど
それも戦略なのだろうなあと。
素朴な職業の方で
骨太な発言を
ツイッターでされているのを見て
講演会に行ってみたら
なんだ、イケメンやり手な人だった
というオチ。
全然素朴さはなく、
むしろすごく戦略家だし
自己プロデュース能力が
ハンパない印象だった。
電博が用意した商品のように
ターゲットへの意識が完璧。
多分、能力にも見た目にも
すごく自信があるだろうし
その職業じゃなくても
十分活躍できることを
よくわかってて
あえて穴場として
選んだのではなかろうか。
ああいうのが一番大衆に
ウケるんだろうけど
私の琴線には触れないかも。
その業界を変えていく方なのだろうし
大義は偉いとは思うけれども
純粋な社会的信念も
あるのかもしれないけど
「キラキラな僕」風味なのが
少々気になった。
キラキラしたいって思うときも
たまにあるけど
キラキラって、ときにちゃっちいなあと
気付かされたのでした。
私は誰かにとって
好みに合わなくても
全然構わない。
理由は2つかな。
一つ目。
私なりに、生まれてからずっと
自分を育ててきたし
私なりの美学を持っているから。
もちろん凹むこと、反省することは
たくさんあるけれども
少しずつ磨いてきた自覚がある。
2つ目。
今まで応援してくれた人の
温かい気持ちが
今も変わらず心に貯金してあるから。
そもそも好みって
すごく主観的なものだから
人によって感想が違うのは
当たり前。
傍目からは
わかりにくいならば
むしろ好都合。
誰でも彼でも
気安く近づいて欲しくない。
私を大事にしてくれる人にだけ
近づいてもらえれば安心。
そのためにも
見た目は整えすぎないことも
戦略の一つだと思うことも。
気に入ってくれたら
「趣味がユニークだねえ」と思いながら
ありがとうだなあと思う。
内面はクセがあるから
価値観に合う服は
そんなにたくさんない。
だけど20代までは、似合えば
割と幅広く着てみたかった。
でも散々、散財して
自分の好きなものの根幹を
磨けた気がしていて
今は、しっかり気に入った
長く着られそうな良いものを
多くなくていいから、大事にしたい。
結構金遣いが荒くて
困ったなと思うときもあったけれど
それがあったおかげで
買い物が得意になったと思うし
ちゃんと活かせる経験として
昇華できつつある気がする。
また散財したくなることも
あるかもしれないけれども
でもどこかで冷静な目は
持っているんだろうと思う。
何がしたいかに
人の価値が表れる。
表面的な一時的な評価に
振り回されてはいけない。
意外にすぐ凹んだりするので
(サクッと戻ったりはするけど)
誰がどう見ようと私である。
みたいな面をもっとしっかりさせたい。
私は、相性がよっぽど悪くない限りは
老若男女問わずにすぐに仲良くなれる。
けどその分、その場の人によって
私だったり、私じゃなかったり
してるような気がする。
そういう傾向は
変わらないかもしれないけれど
こころの重心をもっと意識したい。
人に印象づけることと
相手が本当に求めていることを
捉えることは別。
私は人に印象づけることが得意。
嫌でも目立ってしまうこともある。
働いていた会社の合併が続いたとき
埋もれないように
不利にならないようにと
「なんでもいいから、とにかく目立て!」
と教育された会社もあった。
それでなのか
つい印象付けをしてしまうけれど
それがずっとだと、しんどい。
本来、仕事では
相手の求めることを把握して
可能ならやり遂げる、
不可能なら断る、
その二択でいいはずだよね。
選択することを忘れて
がむしゃらになってしまうことも
たくさんあった。
自分の限界を認めないと
他人を批判したくなってしまう
らしいよ。
なるほど
やり遂げたとしても
よくないね。
自分の限界を認めると
他人も認められるってことか。
ミヒャエルエンデのモモみたいに
全身がまるで耳になったかのような
聴き方ができていたとき
生き心地がとてもよかった。
仕事のストレスが重なって
自分の呼吸を聴くことがなくなったら
いつの間にか、そんな聴き方は
できなくなっていた。
生き心地が悪いわけではないけれども
その感覚を取り戻してみたい。
今ならできる気がする。
全身耳になるには
心を澄ませて
すなおな、すなおなきもちで
聴くこと。
何のしがらみからも影響されずに
何の偏見も持たずに
ただ一個の心として
そこに存在すること。
簡単そうでいて、
ストレスが溜まってると
本当に難しい。
でもできると没頭できるから
すごく気持ちが良い。
私が私を生きる上で
すごく大切な感覚。
面倒見はいいからか
依存されやすいらしいけど
本質は甘くないから
依存の度合いが酷くなってくると
耐えるだけ耐えたら
あるとき、さっと振るい落としてしまう
ということを
今年よくやってる気がする。
もがいてる一時期なら全然いいんだけど
長期に渡る、改善が見られない依存には
私は耐えられないのだと思う。
傷付けて悪いけど
他人に依存して生きてこうってのは
どだい無理な話だよ。
自分を磨けるのは自分だけ。
私も依存されないように
気をつける。
お互い頑張ろうじゃん。
成長する気がない人
成長する力がない人
そのどちらにも
手を貸してはいけなかったんだ。
そういう人達は
人にぶらさがって、依存するだけ。
人に非生産的な話を延々と聞かせて
気分を落ち着けるという
その場しのぎに味をしめて
何年経とうと何も進歩しない。
いや、
いつか成長するかもしれないし
いつか進歩するかもしれないけれど
そのきっかけに
私がなる可能性は
気が遠くなるほど低くて
自分で気付いてもらうしか
ないんだよね。
理由がない方が強い。
理由つけてるようじゃダメかもね。
理由をつけようとすると
思考に編集が入って
いやらしさが出る。
面接とかでは
しっかり一貫した理由を
用意しないといけないけど
それは
選考を切り抜ける手段であって
あくまでもテクニックなのかも。
大人から何かを聞かれたら
大人っぽい理由を言う方がいいけど
マジでそう思ってるってよりは
体裁整えられるところを
見せる意義であって
もっと心は自由でいた方が
人生にとっていい気がする。