じぶんの充電方法

どうしたら自分は満たされるのか

それを煮詰められて
ある程度、解明できたことが
このブランク期間の最大の収穫だと思ってる。

いかに生きるか、を
洗いざらい見直したというか。

資本主義経済に合わせて
仕事はせざるを得ないけど
それだけでは消耗してしまう。

だから、社会に迎合しない活動を
迷惑かけない範囲で、定期的にすることが
意外と大事なんだよね。

社会人である限り、
評価にさらされるし、

どう伝えるか、
どう伝わるか、
どう見せるか、
どう見えるか、など

自分なりに管理しないといけない面は
必ず出てくるけど

相手目線ばかりを気にしていると
自分目線が置き去りになり

段々窮屈になってしまうし、
心がスカスカになって
全然満たされなくなる。
周りからはエラく見えるかもだけども。

ほんで、密度が落ちた自分からの発信て
自分で納得いかないし
自信なくなってきて
なんかツラくなってくる、
みたいなことがあった気がする。

やっぱり、健やかな発信ができる自分を
キープするには、ケアやメンテが欠かせない。

よーく考えると
まあ、当然そうだろうなあって感じなんだけど

渦中にいると
何がなんだかわからなくなったりしてね。

例えば
誰にも理解してもらえない
かもしれないことでもいいから

気になることや
モヤモヤすることを

誰の目線をも気にすることなく
自分なりに納得するまで
深く追求すること。

本音にきめ細かく対応すること。

背伸びしないこと。大人ぶらないこと。

今を目的にいること。

素朴な気持ちで
自分の内側にしっかり帰ること。

多分そうゆうのを積み重ねてれば
大丈夫な気がしてる。

ただそこにいるということ。

​人の役に立たないと
自分の価値が感じられないのは
病的である。

って
自分に時々言い聞かせる。

命の存在って、
そのもの自体に尊厳があって
尊いものであるはずなんだよね。

成長したいとか
向上したいとか
それも大事なんだけど

一方で、そうでない側面もあるんだよってことを
ただそこに存在することが大事なんだってことを
しっかり認識しとかないと

無意識に差別とかしてしまいそうだし
それって下品だなと。

成長や向上って苦労を伴うことが多いから
つい、それが偉いって思いたくなる。

けど、そうしたいからしてるだけで
幸い、そうできる状況が自分には整ってるってだけで

そこに偉いとか、偉くないとかって話は
必要ないんだってこと。

「今」は手段じゃない。

​キャリアビジョンを描くと
一見、計画性もあって
素晴らしいようにも見えるし

自己啓発本にも正解として
よく書かれてそうだけど
簡単に「今」が手段化してしまうのが問題。

人生って
本来「今」を目的にしとかないと
精神的なバランスが崩れやすい。

「今」を目的として生きた時間の積み重ねこそが
生き切った満足感につながるんじゃないかって
思ってる。

だから、あんまり先まで
考えるのではなくて
「今」楽しく真剣に取り組めるものを選びたい。

ロマン?

​私は社会的大義を
ぼんやりとでもいいから持ってる人が
男女問わず、人として好き。

意識的に社会に関心を持った上で問題意識を持って
自分の人生をかけて
なんらか貢献したいと思っていて、
部分的にでも行動に移していること。

そういうの惹かれる。

視野を広く持っていないと
そうはならないし

自然と沢山の人と関わるだろうから
多様性を受け入れる器も磨かれてそうだし。

視野を広く持っているから
変に自分のことばかりで
頭がいっぱいになることも少ないだろうし。

やっぱり、どう考えても
私にとっては
かっこいいのであります。

そんな人達とたくさん出会えるように
私も想念を磨いておかないとなあ。

私が勉強するのは

自分を救いたいからかも。

身近に
本当に知りたいこと、
本当に話したいこと、
本当に聞いてほしいことを
ぶつけられる相手を
子供時代に見つけるのは
なかなか難しかったりする。

そんな中で
教育学
社会学
心理学
哲学
これらがとっても
自分を救ってくれたと思う。

学問に没頭してると
すごく神聖な気持ちで
時空を超えて
清々しい気持ちになれるからいい。

そんで、すべてを救うことはできなくても
一定程度救われた自分なら
人のことも救えるだろう、みたいな。

公文って

まず誰の力も借りずに
1人で解いて理解していくから

勉強してるポーズを取って
ごまかすとかは
できないものだと思う。

なんとなく机に向かって
特に理解もせずに
時間を過ごしても
解けないから全然進まなくて

それが先生にも親にも
明瞭に伝わるし
「それでは勉強って言わないよ」って
注意がしやすい。

子供の勉強としては
やっぱりいいんだろうな。

学校の宿題って
間違ってても構わないやつだから、

なんとなく机に向かって
解いた気分で作業として
終わってる子もいて、

学校の先生がバツしたところで
放置して見直さなければ

自分がしっかり理解したのか
そうでないのか

自分でその違いがわからないままの子も
いるんだろうと思う。

それでは
何時間座ってても意味ないし
時間がもったいないよね。

退屈の効果

​一人っ子って、割とそうなのかもしれないけど

退屈を何かで
埋めなかった結果、

たっぷりの内省する時間が
取れたことで
心が伸び伸びしたのかなと
思っている。

ワラワラと兄弟がたくさんいたら、
親の手伝いやら
下の子の相手やらで忙しくて

自分でオールを漕ぐことなく
勝手に時間が過ぎて

今の私ではない私になったろうと思う。

それはそれで、どこかまた
よかったと思えることはありそうだけど。

内省する時間が増えると
当然、頭が整理される。

誰に教えられた訳でもなく
黙想状態になり

なにもない、を味わうように
なったりする。

これが、すっごく大事な気がしてて。

幼少期、
自分は本当はどうしたいのか、について
よく考えてた。

大人になってから
それが自分を本当に大切にすることの
基礎にあたるんだと気付いた。

退屈だと
ちょっとしたことも気になるし

良くも悪くも
何か、誰かにかき消されることも少なくて

モヤモヤが頭を巡ったときには
自分で向き合うことを
自然とやるようになって
心の筋肉が育ちやすい気がする。

感度の高さ

神経質って
ネガティブなイメージがあるけど

私は可愛いと思う。

​多少神経質なくらいじゃないと

絶妙な距離感て
保てないんだろうし。

実際、営業がうまい人って
一見めちゃフレンドリーなように
見えるけど

本当はすごく神経質な人が多い。

相手がどういうことを
嫌がるのかを察知することが

信頼につながる。

神経質さは
乗り越えるもんじゃなくて
大事にするもんだよ。

そのままで大丈夫

​昔はいつも何かしら
欠落を見つけては
自分をアップグレードさせなくちゃって
躍起になってたんだけど

あるときから
アップグレードしなくて
いいや。
なんかしんどいだけかも。

このままで
どこまでいけるか
やってみよーじゃん。
って思うようになった。

それからやっと
子供時代の自己肯定力が
戻ってきて
とっても健やかになった。

何かを
欠落と決めるか
個性として受け入れるか

人生を気持ち良く生きていく上で
すごく大きな分かれ道だと
今思う。

もちろん今だって
直さないといけないところもあるし

気を付けなくちゃって
改善しようと意識することもあるけれど

でもベースについては
しっかり信頼した上での話。

ちょっと惜しいから
直しとこう位の気持ちで。

それがたとえ
惜しくなかったとしても。

意識をまとうこと

​今は身も心も
学生のコスプレしてる感じ。

昔働いてたとき
身も心も
会社員のコスプレしてると
思えてたら

もっと楽だったかもなって
思う。

私は環境や立場で
コロコロ変わってしまう。

だけど
自分がないわけじゃないし

むしろ我が強くて
困る位なのに

その便利な性質のせいで
なんだか不安定で。

いつも何かのコスプレを
してると思えば

もっと軽やかに
生きていける気がする。