努力で目に見える成果を出すことって
承認欲求を簡単に得られる
ドラッグのようなものなのかもしれない
と思うこともある。
つまり、一見努力しているようでいて、
本質的にはサボっているのかもしれないと。
自分で自分を支える力の維持が重要なのに
そのための思索こそが肝なのに
その維持には、
不断なる深い自己探求が必要で
ショートカットすることが決してできない
面倒さがある。
だから、余裕がないとつい忘れがちになる。
さらに、そのサボりは
目に見えないものだから
自覚できるまでに時間がかかる。
目に見える努力をすることで
目を背けがちになる。
それで、気づいた時には
足腰がフニャフニャ。
手っ取り早くその場しのぎに逃げてしまう。
ってこと、結構ありそうでしょ。
自分は大丈夫かな?って
時々思います。
自分がどの程度、
真の探求ができているのか、
もしくは、さぼっているのか、
根拠なく自信がある日もあれば
何も本質的には
前進できていないかもしれないと
根拠なく凹む日もある。
人生にとって
本質的じゃない努力なんだったら
全部やめちまえって思うことだってある。
だけど。
その本質的ではないかもしれない努力の価値は
その成果や能力をどう使うかによっても
また変わってくると思うのだ。
信念を持って、誰かのため、
社会のために使うことができたら
きっとそれは自他ともに幸せなことで
自他ともに幸せならば、
本質的なところに帰着できる価値に
なるんじゃないかって思う。