月別アーカイブ: 2016年12月

2016

今年は珍しく
ほのぼのと
「いい年だったなあ」と
思える年だった。

いつもが悪い年というわけでも
ないのだけど

今年は何ができただろう
自分を豊かに耕せただろうか

と、過ぎ行く歳月に焦燥感を
覚えるばかりだった気がする。

今年は何がよかったのかなと
考えてみる。

自分の努力が実りつつあることを
実感し始めたこともある。

まだゴールまでは道のりがあるけれど
とても励みになった。

根を詰めないように
気をつけたのも良かったかも。

すぐ完璧主義に走りたくなって
消耗して
やる気ゼロになったりしてたから。

あとは家の中が穏やかになり
子供時代の欠落を少しは
埋められた気がする。

さらに
すっかり自分のペースで生きたことで
内面に必要なものが
充満してきたみたい。

やっと学生時代のような豊かさを
再構築できつつあって
とても凪いでいる。

来年はもっと頑張れそう。

生業の振り返り

多分
その立場で求められる
思想、価値観、振る舞いの

ほとんどを理解できるし
ほとんど演じられるのだけれども

数年経つと
自分との乖離に
耐えられなくなってくる。

それが私の転職の理由かもな。

でも
ありがたいことに

入社しなければ良かったとか
退社しなければ良かったとか
思う会社は一つもない。

全て熟慮の末の結論だし
各々、その時の私にとっては
必要な決断だったのだと思う。

それぞれで
得られること、学べることが
確かにあった。

自信の根拠

昔から根拠のない自信がある。

でも友人から

「あなたは自信があるから」
と言われても

「自信ないところもあるんだけどなあ」と
あまりピンと来なかったりしたのだけども

ちょっとわかったかも。

多分、私に自信があるとしたら

よりクリーンな考え方になろうと
常に意識してるからだと思う。

無宗教は今後も貫くつもりだけど

より高次の祈りを
ひっそり持っていたいと
思ってる。

人から悪く言われたとしても

「そりゃ完璧じゃないけど、
頑張ってるもんね〜」と

爽やかに自己弁護できる自分で
ありたいと思ってる。

想念を整えておくと
去る者がいても追わずに

合わないなら仕方ないよねー、と
本心から傍観できる。

へこみを探して埋める

課題設定が
しっかりできていないのに
インプットをいくらしても
あまり意味がない。

資格の勉強で進め方を磨く中で
気づいた。

課題設定とは
自分の弱点を因数分解すること。

それまで
認めたくなくて
目を背けてきたこととかが
もしあったら
それも全てひっくるめて

目をかっぴらいて
分析しないとできないから
とても勇気の要る行為。

えぐられる気持ちになってこそ
意味があると思う。

真の成長は痛みが伴う。

それ以降は無理なく
インプットの効果がでるはず。

課題設定は一歩引いた視点に
立たないとできないから

時間的かつ精神的なゆとりが
必要不可欠。

それができないと
インプットの効果が下がるので
積み上げてる「つもり」の時間に
なってしまう。

力を入れるべきは
インプットではなく
アウトプットでもなく

課題設定だと思う。

ペルソナ設定

結局私らしさを保つには

無理に大人になろうと
しないことだなって気づいた。

20代は
仕事上の必要もあって
ずっと背伸びしてたと思うけど

今となっては
どこからどう見ても
大人には見えるはず。

敬語は苦手じゃないけども
常に敬語で他人行儀になるのは
さみしい。

興味がある相手には
時と場合を見極めて
ちょっとタメ口を織り交ぜながら
仲良くしたい。

きちんとした人だけど
固くてつまらないと思われるのと

ちょっと緩くてたまに失礼だけど
愛嬌があって楽しいと思われるのと

どちらがいいかといえば
断然後者だから。

年齢立場に関係なく
心許せる上質な関係性を築きたい。

一つの生きものとして

人の価値観は
もっと市民権を得ていい。

周りの人を見て考えるのではなくて
自分の腹に聞いて考える。

世界が本当にこれを徹底できれば

いじめも、戦争も
ほとんど起こせないと思う。

協調だって大切だけど

それと同じ位に
個で考える力は
重要だと思う。

心地よさのコツ

ファッション誌を買わなくなってから
1~2年経つ。

月に何冊も買っていたのに

今は、読もうとしても
あまりの情報量に面倒だと感じる。

前は、読んで
癒されていたはずだから
人間変わるもんだね。

百貨店に行っても
大して欲しいものがない。

インプットの量を減らしたことで

自分が本当に着たいものや
着心地がいいものに対する
アンテナの感度が上がった。

流行っていようとなかろうと
自分は本当は何が着たいのか
心に問う余裕を持てた。

私が一番いい影響だと思うのは

本当に着たいものがわかると
自分を大切にできている感じがすること。

流行に流されて
買いたいものが
常にあった頃と違って

物欲と焦燥感が混ざった
あまりよろしくなさそうな感情が
減って心地よくなった。

センスを磨きたいというのもあって
雑誌をたくさん見ていたけれども

センスが良くなることと
居心地がいいことは
必ずしも同じではない。

着たいものがわかっているなら
社会的におかしくなければ
十分だと思う。

これって、他のことにも
同じことが言えるかも。

本屋のビジネス書棚を見ると
いかに莫大な情報を
いかに早いスピードで処理するか、や
いかに多い冊数の本を読みこなすか、など

莫大なインプットを
奨励している文脈の本が
たくさん出ている。

そもそも本当に
そんなにたくさん必要なのかな。

そんなんで自分に何か
積み上がるかな。

一冊にかける時間が短ければ
印象は薄くなる。

読みたいものを読みたいペースで
じっくり読んだらいいじゃない。

その方が、
美味しく食べた食べ物のように
しっかり内容が身に付く気がする。

ほかにも
facebookでたくさんの人とつながることって
一見良さそうにも見えるけれども
これもなかなかしんどい。

人って必ずしも
一つの顔だけで生きてないから
いろんなコミュニティが一元化されると
本当にややこしい。

莫大に読みたいのではなくて
莫大につながりたいのでもなくて

「気持ちよく生きる」ことが
目的なんだから
あれ、なんか変だなって思う。

作為的な努力って
満足感から遠ざかることが
実は多いよなあ。

ここの方針

このブログは
今後どういうものとして
続けていくのかわからないけど

読み手を意識して
何か演出をかけていくのではなくて

できる限り、
嘘のないものにしてみたい。

それがどんなに
不恰好であったとしても。

大人になると演出がうまくなる分
孤独になる。

仕事したら
演出せざるを得ない。

だから、ここでは
これ以上ないくらいに
まっさらでありたい。

孤独も大切。

だけど
それだけじゃ
生きていけないから。

後遺症

幼少期の体験から

未熟な精神のまま結婚したり
子供を産んだりすることに
抵抗を感じる。

かといって
人がいつ、自分がいつ
成熟したと言えるのかは
わからないのだけども

小さい頃の記憶が鮮明で

自分みたいな
冷静に見抜く子がいると思うと

覚悟もなく子供を産むなんて
できないなと思う。

けど、自分ならこうしてあげるのにと
散々考えて大人になったはずのに

情けないことに
今は子供時代の自分に認められるような
親になれるかはあまり自信ない。

もしかしたら
その子供独特の鋭さを失うことが
大人になるということなのかな。

人の横にいること

私は幼少期の
精神的な苦労のせいで

幼い頃から
友人のも大人のも
人の悩み事がライトに感じられて

「こんな風に思えば、楽じゃないかな」と
いつも解決法が浮かぶ面があった。

だから、なにか捉え方のせいで
辛くなっている人を見ると

もったいなく感じるから
力になろうとしてきた。

相手も楽になったら
私も嬉しいし
自分のしてきた苦労も少しは報われて
一石二鳥じゃない、と。

近くにいて、私の考え方から
何か影響を受けてくれたら
きっと今よりも
楽しくなるんじゃないかなと。

私と一緒にいれば
たしかに楽しそうな人がいて
私も嬉しかった。

けれども
それから時間がたって知ったのは

辛く考えたい人も
世の中にはいるということ。

それはその人個人の
自主的で積極的な
選択であるのだということ。

影響なんて全然なくて
実は何も力になれていなかった人も
中には、いるのだということだった。

そっか。私、傲慢だったなと。

とくに家族からの洗脳が強い人は
難しいみたい。

私は家族以外の人からも
良くも悪くも影響を受けるから

他人もそうだと思ってたのが
違っていたようだ。

私の祈りなんて
無力なんだなって思って
ショックではあったけれども

背負い過ぎていた荷物に
気づいて

荷を下ろすことができて
ある意味、ほっとしている。

誰がどうであれ、私は前に進む。

いつか本当に変わりたくなったら
声をかけてもらえたらな、とは
心の隅で思ってる。