月別アーカイブ: 2016年10月

ソトとウチ

理由がない方が強い。
理由つけてるようじゃダメかもね。

理由をつけようとすると
思考に編集が入って
いやらしさが出る。

面接とかでは
しっかり一貫した理由を
用意しないといけないけど

それは
選考を切り抜ける手段であって
あくまでもテクニックなのかも。

大人から何かを聞かれたら
大人っぽい理由を言う方がいいけど

マジでそう思ってるってよりは
体裁整えられるところを
見せる意義であって

もっと心は自由でいた方が
人生にとっていい気がする。

ヒマは潰さないが勝ち

やりたいことを
ゼイゼイハアハアしながら
100%やり尽くすよりも

全部できなくても全然構わないから
一歩一歩、丁寧に
自分の心に寄り添ったペースでした方が

明らかに満足度が高い。
結局、納得感が
全てを決めちゃうのよね。

時間と満足の関係性、
理屈では測りきれない神秘。

勉強もね、1日◯時間とかって
決めてやってるときは
義務みたいですごく窮屈だったし
イライラしてた。

どんどんインプットして
どんどんアウトプットはしても
なかなか伸びなかったよ。

ワガママな私の場合は、
かもしれないけど
時間的には休憩たっぷりで
ゆったりさせた方がいいみたい。

ぼーっとしてる時に
ふと、さっき解いてた問題の
疑問点が浮かび上がったり

違う科目や論点の
相関性や矛盾にふと気付けたりして
理解の深度が改善したと思う。

頭を信頼して、
ゆったり過ごすと
脳みそが勝手に
理解を整頓してくれる。
インプットを
ちゃんとしてればね。

私はそれで
結果を出してきたと言っても
過言ではない。

自然を信頼するって
すごいエネルギーになるよね。

しかも普段ゆるんでる分、
必要なときは
突然スイッチ入れたかのように
メチャクチャ集中できるし。

農業とちょっと似てるかな。
じっと待たないと
収穫できないというかね。

ガリ勉の成績って
費用対効果悪いイメージする。
ストレスフルだろうしさ。

それよりも、
ムラがあったとしても
心に正直に楽しんで探求する人には
誰も勝てない。
理解の深度が違うから。

スマホは、ずっと長い時間、
情報が自在に見れて
考え続けてしまうし

思考のスキマがなくなってしまう。

生き心地も窮屈で、幸せ感が減る気がする。

気を付けよう。

それもこれも恩

誰かが応援してくれてるから
私は元気でいられるんだなあ。

私を気に入ってくれるのは
私が優しいからだよねと
思ってたけど

私はそうやって
人から愛を頂いてたのだと
気がついた。バカだなあ。

子供の頃、
家族の愛情不足を感じて
よそから愛を
かき集めようとしていた名残。

だから、もしかしたら
もらってばかりだったかも
しれないなあ。

注目される者で
場の雰囲気が決まったりするから

その責任については
考えてきたつもりだったけど
傲慢だったな。

自分が強いわけでもなくて
人がいないとダメなんだ。

展望

若いときは

不必要な苦労なく
スムーズに効率的に
早めに成功できたら
いいのになって思って
よく凹んでた気がするけど

それでは、長期的に見たら
結局あんまり魅力ない仕上がりに
なりそうだなと、今は思う。

自分の将来を考えたとき

大した苦労もせずに要領の良い
無難な人になりたいのか。

いや違う。

私はもっと人間味に溢れてて
試行錯誤、孤軍奮闘の跡を感じる
言葉にできない魅力が溢れた人に
なりたいんだ。

他人から見たら
マネしたくもない道通っても
その経験から
人の気持ちがわかるような

似合う服に包まれてて
居心地良さそうで温かくて、
色んな人の応援になるような人。

そのためには
しっかり自分の感覚を持って
一瞬一瞬を大切に受け止めたい。

エゴを後回しにするから
毎日がつまらなくなる。

理屈ばかりをふりかざすから
色褪せる。

論理は万能じゃない。
心にとっては特に。

こうやって、寄り道していること
ワガママと言われるかもしれないことだって
もちろんわかってる。

でもきっと
生きる力に転換してみせる。

そういう生き方がしたい。

ちょうどいいはどこ

一貫性を求めていた。
それが正しいような気がしてたから。

でもそんなもの、あるはずもない。
工業製品ではないんだ。

井の中の蛙は嫌。
色んな正しさを知りたかった。

何度か環境を大きく変えることで
いろんなこと、感じ取るほど
その都度、情報が取り込まれた。

元々落差が激しかった内面が
ますます拡がったような気がする。

太陽みたいと称される明るさと
奥に秘めた静寂さ

引き出しを閉められないグタグタさと
折り紙の角は揃えたい神経質さ

手加減したときの底抜けに甘い態度と
吹き矢のようと言われる言葉の辛辣さ

意外とクヨつく繊細さと
いざとなると目と腹が座る図太さ

ずるさ失礼さに対する短気な怒りっぽさと
時間が経つと許している執着のなさ

どちらも本当で
無意識に必要に応じて、チューニングされてる。

便利。
だけど、どことなく不安定。

もう大人だから、
それもよしとしよう。

見える努力の価値化

努力で目に見える成果を出すことって

承認欲求を簡単に得られる
ドラッグのようなものなのかもしれない
と思うこともある。

つまり、一見努力しているようでいて、
本質的にはサボっているのかもしれないと。

自分で自分を支える力の維持が重要なのに
そのための思索こそが肝なのに

その維持には、
不断なる深い自己探求が必要で

ショートカットすることが決してできない
面倒さがある。

だから、余裕がないとつい忘れがちになる。

さらに、そのサボりは
目に見えないものだから
自覚できるまでに時間がかかる。

目に見える努力をすることで
目を背けがちになる。

それで、気づいた時には
足腰がフニャフニャ。

手っ取り早くその場しのぎに逃げてしまう。

ってこと、結構ありそうでしょ。
自分は大丈夫かな?って
時々思います。

自分がどの程度、
真の探求ができているのか、
もしくは、さぼっているのか、

根拠なく自信がある日もあれば
何も本質的には
前進できていないかもしれないと
根拠なく凹む日もある。

人生にとって
本質的じゃない努力なんだったら
全部やめちまえって思うことだってある。

だけど。

その本質的ではないかもしれない努力の価値は

その成果や能力をどう使うかによっても
また変わってくると思うのだ。

信念を持って、誰かのため、
社会のために使うことができたら
きっとそれは自他ともに幸せなことで

自他ともに幸せならば、
本質的なところに帰着できる価値に
なるんじゃないかって思う。

味わうチカラ

表裏がないって言われるのは
多分、価値観が強いっていうか
常に自分の意見が強くあるから
想いが伝わりやすいのかも。

そういう人は
お芝居に向いているらしいから
やっぱり色々落ち着いたら
またやりたいなあ。

お芝居なんて
自分が好きになるなんて
子供の頃は考えたこともなかった。

だけど、私が高校位から関心があった、
ミヒャエル・エンデや平田オリザさんは
演劇を重要なものとみなしていることが
著書からビシビシ伝わってきて。

それがきっかけで
色々見るようになって、
その奥深さに開眼して

一回試しに市民劇団に入ってみたら
その精神に与える
前向きな意義に気づかされて
さらに興味を持つに至ったのだ。

お芝居なんて、
セリフを覚えて言うだけの
非生産的な文化みたいに
思う人もいるかもしれないと思うけれど
実は全っ然違う。

あんなに生き方に影響のあるもの、
ないと思うよ。

一言発するにも
その人の生き様が表れる。

そう思ったら、自分の振る舞いにも
関心が向かうし、
自他ともに深く味わえると思う。

尊さを

思い出して欲しいと思う。
子育てで自信をなくすことがあるのなら。

子育てはこの世の仕事の中で
最も尊い仕事なんだって。

すごいことしてるんだって
誇りを持って欲しいなって。

私はビジネス的な仕事が好き。
いい仕事がしたい。

けれど、尊くないと思う仕事は実際多い。

私の向き合い方によっては
仕事が尊くなることもあるけれども。

一方、子育てに至っては、

無条件に、仕事自体が尊いのだ。
それって、結構すごいよ。