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ここの方針

このブログは
今後どういうものとして
続けていくのかわからないけど

読み手を意識して
何か演出をかけていくのではなくて

できる限り、
嘘のないものにしてみたい。

それがどんなに
不恰好であったとしても。

大人になると演出がうまくなる分
孤独になる。

仕事したら
演出せざるを得ない。

だから、ここでは
これ以上ないくらいに
まっさらでありたい。

孤独も大切。

だけど
それだけじゃ
生きていけないから。

後遺症

幼少期の体験から

未熟な精神のまま結婚したり
子供を産んだりすることに
抵抗を感じる。

かといって
人がいつ、自分がいつ
成熟したと言えるのかは
わからないのだけども

小さい頃の記憶が鮮明で

自分みたいな
冷静に見抜く子がいると思うと

覚悟もなく子供を産むなんて
できないなと思う。

けど、自分ならこうしてあげるのにと
散々考えて大人になったはずのに

情けないことに
今は子供時代の自分に認められるような
親になれるかはあまり自信ない。

もしかしたら
その子供独特の鋭さを失うことが
大人になるということなのかな。

人の横にいること

私は幼少期の
精神的な苦労のせいで

幼い頃から
友人のも大人のも
人の悩み事がライトに感じられて

「こんな風に思えば、楽じゃないかな」と
いつも解決法が浮かぶ面があった。

だから、なにか捉え方のせいで
辛くなっている人を見ると

もったいなく感じるから
力になろうとしてきた。

相手も楽になったら
私も嬉しいし
自分のしてきた苦労も少しは報われて
一石二鳥じゃない、と。

近くにいて、私の考え方から
何か影響を受けてくれたら
きっと今よりも
楽しくなるんじゃないかなと。

私と一緒にいれば
たしかに楽しそうな人がいて
私も嬉しかった。

けれども
それから時間がたって知ったのは

辛く考えたい人も
世の中にはいるということ。

それはその人個人の
自主的で積極的な
選択であるのだということ。

影響なんて全然なくて
実は何も力になれていなかった人も
中には、いるのだということだった。

そっか。私、傲慢だったなと。

とくに家族からの洗脳が強い人は
難しいみたい。

私は家族以外の人からも
良くも悪くも影響を受けるから

他人もそうだと思ってたのが
違っていたようだ。

私の祈りなんて
無力なんだなって思って
ショックではあったけれども

背負い過ぎていた荷物に
気づいて

荷を下ろすことができて
ある意味、ほっとしている。

誰がどうであれ、私は前に進む。

いつか本当に変わりたくなったら
声をかけてもらえたらな、とは
心の隅で思ってる。

稼ぎをどう使う?

金銭感覚を一度地に落とすと
本当に必要なものが見える。

バリバリ働いていた頃

スタバに日に2〜3回行っていた。
朝や昼、休憩中、夜に。

当時からそんなに必要ないのは
頭ではわかっていたけれど

雰囲気が好きだし
ストレスも溜まってたのだろう。
なぜか気付くと足が向いていた。


スタバに行くのは
月に1回あるかないか。

つまり一月あたり
1/75である。
※2.5回/日×30日/月=75回/月

金額に直すと
320/24,000円。

年に直すと
3840/288,000円。

差額284,160円で出来たこと
沢山あったかもね。

まあ、これは極端な計算だけども

こういう風に人の貯金額の差って
どんどん広がるんだろうなと思うと

ちょっと恐ろしい。

言葉足らず

後から自分の文章を読み返すと

何か誤解を受けそうな表現だなと
思うことがよくあって

ひゃーと思いながら
時々ちょこちょこ追記したり
直したりしてる。

書いた時は
主観が勝ってしまって
なかなか気付けないのだけれども。

大体は
何かをはしょり過ぎていて

いつもの私を知ってる人しか
汲めなそうなことがしばしば。

多分これは
書き言葉に限らず

話し言葉も
きっとそうなんだろうなと
想像がついた。

ブログは良い訓練になる。

伝える力、ちゃんと持っていたい。
伝わる力、磨いてこう。

知る尊さ

知識の価値がなくなると言われて
久しいけれども

未だ知識の価値がなくなったとは
思えないし

何よりも
知識を入れないと
アイデアも浮かばないし
深く考えることもできない。

それで結局
知識がある人のいいように
されてしまうと思う。

だからつまりは
知識の価値がなくなるなんて
ないのだと思う。

吸収力はまだ磨ける

大学受験までは
数回読んでピンと来ない問は
ご縁がなかったとして
飛ばしていた。

私は子供の頃に公文で
国語をずっと習っていて

理解力、読解力には
かなり自信があったから

これ以上は
いくら読んでも無駄だと
思い込んでた。

それが、
資格を取ることにしてから
問を飛ばしてばかりいられなくなり

ピンと来ない文章も
敗北感を抱えながら
期間も開けつつ
何度もなんども読んだ。

そしたら、意外にも
段々理解できてきたのだ。

文章がピンとこないというのは

使われている用語の定義が
腹に落ちるほどには
理解できていなかったのだと

今になってわかる。

一歩一歩

とにかく着実に生きること。

それをここしばらくずっと
意識して実践してきた。

自分を縛るものがない中で
後から後悔するような過ごし方は
したくないと思って。

知識を増やす日もあるし
内面を深める日もあるし
好きな色、似合う色を探究する日もあるし
自分や家族の髪をカットする日もあるし
自分の持ち物を裁縫道具で
使いやすいように改良する日もある。

何か一つでもいいから
心赴くままに

知ってることを増やしたり
できることを増やしたり
極めたりしていけば

会社によくわからないことで
年月振り回されるよりも

納得感の高い、
私だけのどこかに
辿り着けると思う。

真剣さと日常

は両立できるはず。

しゃかりきに何かに取り組むことだけが
私を幸せにしてくれるのではないかと
昔は思っていた。

気づくことが時に多すぎる自分だから
しゃかりきになることで
下らないことを遠ざけられたし

ゾーンに入ってるのが
気持ちよかったし

何よりも登っている実感が
自分をとても励ましてくれたから。

だけど、それだけじゃあ
人生として成り立たないのだと
今はわかる。

人である以上、
生活という日常が必要であり

洗濯もしなければならないし
服もたたまないといけない。

そんな大切なルーティーンを
楽しめないのだとしたら
なにか中毒に陥っている気がする。

何かに傾倒せずにいられない要因が
自分の中にあるはず。

私は、あまり家事が好きなタイプでは
ないかもしれないけれども

でも、気持ちが豊かでいられたら
そんなルーティーンも楽しめるはずだと。

つまり、家事がつまらないのだとしたら
それは私の心象風景が
イマイチなのであって

家事自体の単調さのせいでは
ないということ。

向上心の心地良さ

学習意欲って

想念の濁りを
浄化してくれる効果が
あるものだと感じている。

一生勉強、というのが
よく言われるのは
きっとそういう意図ではないかな。

私はそこそこ進学校と思しき
皆が真面目に勉強する中高に通った。

当時クリーンな関係性を築けていたのは
そういうことが大きかったのかもしれないと
よく思う。

机上の勉強である必要は必ずしもなくて
とにかく何かを向上させること。

努力してると濁る暇がない。

私は社会人になってもしばらくは
色々なことを学んでいたけれども

仕事で疲れ果てた時期からしばらく
勉強することを止めたことがある。

いつか自分の理想を実現するために
勉強しているつもりだった。

だから、理想とかけ離れたままの
現実とのギャップに
とうとう耐えられなくなったのだ。

高みに登ろうとしていること自体が
自分を苦しめているのかもと疑問を感じ

生き方に自信がなくなった。
それで一旦、自分を解放してみようとした。

だが、それから
徐々に想念が濁ってきて
また結局、苦しくなってしまったのだ。

ということは
立てた仮説が違うということ。

私を辛くしたのは
勉強自体ではなく

努力を手段にしたことで
ある種のさもしさが生まれ

それが
私を辛くしていたのではないかと
考えるようになった。

私はゼロからまた勉強を始めた。

今度は
役に立つか立たないかは
どちらでもいいと思った。

つまり、理想を実現できなくてもいいから
ただ勉強がしたいと思った。

ただ、誰にも邪魔されずに
前に進む何かを感じたかった。

また世界が拡張し始めた。
想念も少しずつ清浄化された。

出会う人の質も改善されてきた。
また自分に自信が戻ってきた。