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私もメディア 相手もメディア

なぜか
話がわんさか口から出てくる相手と
なぜか
言葉が全然出てこない相手がいる。

わんさか出てくる相手には
特別話そうとしてなくても
脳を通らずに口から話が出てくる感じ。

言葉が出てこない相手には
困ったなーとかでもなく
とにかく無音。

わんさか話せる相手から見ると
私はめちゃくちゃよくしゃべる人。

言葉が出ない相手から見ると
大人しくて静かな人。

両極端な印象がはじき出されるけど
私の中では一貫してて
何も取り繕ってないだけ。

つまり、私にとっておしゃべりとは
相手から引き出されるものであり
私から提供するものではない。

あと似た話で
頭の回転も相手や周囲の人から
影響を受ける。

だから
すごく賢そうに見られることも
すごくバカそうに見られることも
両方ある。

人って自分だけで
自分が構成されてるわけじゃないから
だからこそ環境をしっかり選ぶのが
大事なのよね。

自分を削らない

今、多分
自分を貫く練習をしている。

私はものすごく我が強い。
なのに空気も読む。

自分の我の強さが
軋轢を生むこともわかるし

外野から理解されてないと感じれば
傷もつく。

だからとりあえず
自分を一時的に技術的に隠していた。
その技術とはタテマエのこと。

社会に出て、それが癖になった頃
言いようのない限界を
感じるようになった。

端的に言えば
自分で自分のやり方に
気持ち悪くなってきた。

私はタテマエではない
社会と調和する方法を
編み出さなければならないと感じた。

そうでなければ
苛立ちが募るだけで
自分を幸せにできないと
感じ始めた。

そしてとうとう昨日
自分を貫いてかつ、相手との関係性も
良好に維持する、ということが
うまくできた気がした。

自分が希望しないことを
求められたときに

正直に率直に理由を伝えて
(あなたのことは好きなのですが、という雰囲気で)
「すみません、ごめんなさい」と締めくくったら

思いのほか理解してもらえて
すごく嬉しかったし
少しばかり達成感があった。

大人になっても日々成長。

恥を少しずつ

色んな回り道をしたし
誇れることばかりではないけれども

今、私は
自分のなりたい像に
近づいている感覚がある。

それはキャリアとか、家族構成とか
社会的にわかりやすいことではなくて

生き様について。

それらは
私がこれまで歩んできた道なくしては
なしえないもの。

恥をかいたことも多々。
直後はすごく恥ずかしい。
消しゴムで
消したいと思うこともある。

だけどたいてい
後から、あれも必要だったなと思う。

恥をかくことがなくなったら

学びも印象強く刻まれないし
勘違いしてしまうかもしれない。

そしたら、自分の理想の状態から
想念が離れていく気がする。

直後は一瞬はかなり凹んで
本当に嫌な気持ちで充満するけど

でもそれはそれで
大事なことな気がしている。

年を取ると若いときよりは
色んなことが割とうまくできる。

だから時々自分のボケっぷりを
認識する必要がある気がして。

払いたいホコリ

昔、英語の勉強が好きだった。

今、私の頭には
もはや意味を忘れた
聞き覚えのある英単語が
何の秩序もなく散乱してる。

英語の映画を見ると
聞き覚えのある英単語の羅列。

聞き取れるけれども
単語の意味がわからないので
意味は繋がらない。

すっかり聞き覚えすら
なくなってしまう前に

なんとかまた勉強を再開してみたいし
いつか使いこなしたい。

今、別の勉強をしていて思うのは

まず、全ての用語を
聞き覚えのある状態に持っていくのが
なかなかしんどい。

もう子供ではないからね
単純記憶ってやつが
一番難しいのだ。

だから、聞き覚えがあるのに
使えないってことは
すごくもったいなくて。

あと意味をインストールすれば
すぐに使えるから。

そのうちしっかり
ブラッシュアップするんだ!
今年2017中に始めたい。

意識のベクトル

久しぶりに
努力の結果が確定した。

予定よりかなり時間が
かかってしまったから

嬉しいというか、
間延びしていた気持ちが
しゃんとして、やる気が出た。

もともと結果重視なタイプ。

それが社会に出てから
ますます過剰に結果ばかり見る癖が
付いてしまって

自らの価値観で辛くなって
自家中毒状態だったのが

ここ数年で
そういった過剰さが
いい具合に取れた。

プロセスの中で得られた
生活的なもの、精神的なものに
しっかりと目を向けられるように
なったと思う。

これって、大したことないようで
実は人生の質にすごく関わってくるよね。

うまくいくことばかりではないけれど
あきらめるわけでもなく
かと言って
しゃかりきになるわけでもなく

図太い根っこで
必要な程度のフワフワ感を
持っていたい。

枝を生やし過ぎない

私は他人の精神的な止まり木に
なるのが得意な方だと思う。

それも数人ではなくて
かなり多くの人に対してなれる。

それで人間関係がすこぶる良かったし
昔は良いことだと思ってたのだけど

近年は
決して良いばかりではないんだなと
自分の勘違いに気づいて

必要以上に止まり木にはならないし
厳しいことでも
お互いのためなら言おうって
思ってる。

自分でも体験があるのだけれども
甘える対象がいると

本当は自立できるのに
ちょっと依存して
ラクしてしまったりすることもある。

あまりに依存されるのも重たいし
依存する側も成長がなくなるし
何より、関係性として健全じゃない。

学生時代はストレスの度合いが
社会人ほどではなかったから

あまり不健全なところまでは
いかなくて
気づかなかったのだと思う。

社会人になると
人によって、環境によって
抱えるストレスは大きくなりがち。

自分だって楽じゃないときに
無理して元の役割を演じ続けなくても
いいかなって。

それで離れていく縁は
その程度だったということで
いいかなって。

お財布と欲

収入に注目すると
欲がお金にコントロール
されるんじゃないかって。

前に古舘伊知郎がテレビで言ってた。

お金が入ったから遊ぼう、とか
お金が入ったから買おう、とか

本当にそうしたいのか、
またはそうすべきなのか、
ではなく

金額で自分の行動を
決めるようになってしまうのではと。

なるほど。
私、そういうところあったかも。
お金があるから
なんか使いたいって。

それって、収入に注目しすぎてる
ってことだったのか。

支出を見れば
働くモチベーションになるはず。
ともミヤネ屋が言ってた。

ということは、
支出は見ないとだけど
収入に注目せずにいたら

お金のコントロールから
自由になれるかな?

またこの仮説
実践して確かめたい。

インタビューを見て

テレビに小林麻央さんが映ってた。

苦悩にしなやかに立ち向かって
日々一生懸命戦っていることが
すごく伝わってきた。

きっと発病してから
ずっとずっと考え続けてきて
頭がすっきり整理されたのだろう。

意識が神々しくシンプルだと思った。

誰でも、今健康であっても
いつ病気になるかもわからない。

「もっと真剣に生きないとな」
と考えさせられた。

安穏と今のありがたみを
流してはいけない。

いつも思うのだけど
大変な病気って

なんでああゆう素敵な方が、、と
思うことが本当に多い。

病気が天罰みたいに
与えられる世の中だったら

悪人がいなくなって
世の中は平和になったろうに。

刑務所だっていらないのに
この点、神様はどうかしてる。

どうか良くなりますように。

ひしめき合うと

私の中高は
ひとクラス50人弱で
私立のくせに
部屋がさして広くないから

そりゃあもう、すし詰め状態だった。
独り言を言えば
誰かしら何かしらレスポンスを返してくれる。

家族で言うと大家族が
肩を寄せ合って生きている
イメージだろうか。

幸い皆が愉快だから良かったけど
こうなると
もう人が苦手とか
言ってられないというか

関わりたくなくたって
パーソナルスペースに
お互い自然と入っちゃう。

あまりに人が多くて
自意識過剰になる理由がなく
程よく自意識が失せる。

当時は「なんで私立なのに
こんなにも狭いんだろう」と
不満に思ってたけど

それも結果としては
良かったのかも。

思春期ってそもそも
人や自分が気になる時期。

その時に、たーくさんの人を見て
客観性を保てて
ラクだった気がするんだな。

優しさでも育つ

昔は自ら粗探しをして
自分を磨く、みたいな

かなりストイックな考え方だったんだけど
段々しんどくなっちゃって
これは永続不可能だとわかって

しかも、そういうのって
人にもやってしまうというか

人のことまで裁いてしまいがちで
良くなかったなあと思って

近年は脱ストイックを意識してる。

まずとにかくオッケー出してから
なんかマズイところが見つかり次第
直していけばいいよね、っていう
懐柔策に変わったら

結果、自然体でいやすくなって
とても居心地が良い。

このほうが合ってるみたいだ。

自分の中に
異常にスパルタな先生を置くのではなく、
優しいお姉さんを置くことに
変わったようなイメージ。