月別アーカイブ: 2016年11月

母という生きもの

街で通りすがった
素敵な母子をみてふと考えた。

私にとって
お母さんとしての美しさって
なんだろうと。

承認欲求の少なさ、かな。

特に、
昔は私を見て見て!だった人が

そうじゃなくなる姿には
本当に感動します。

それは、
化粧をしてるとか
そういう表面的な美しさとは
必ずしも関係なくて

人生の主役が
自分から子供に移ったことを

何のためらいも
卑屈になることもなく
受け入れてる姿が神々しい。

心に余裕がなければ
そうはできないと思うし

そうゆう人を見ると
なんとも言えないキレイな感じに
とても癒されます。

自己信頼と理解と定着と

分刻みで勉強したり
感情を無視してなにか努力すると

結局、本音が納得してないから
後からどっとツケがやってくる。
全くやる気が出なくなったり。

しかも振り返る時間もないから
マジで定着しない。
知識がどんどん流れてく感じ。

食べ物だけじゃなく努力も
何事も腹八分目がいいのかもね。

がんばるには
ゼンマイを巻く時間が
ぼーっとするゆとりが
必要である。

でも、ただぼーっとすれば
よいかというと、そうでもない。

大事なのは2つかな。

自分を信頼して
心を時間に委ねること。

脳みそが勝手に
理解を整頓するのを待つこと。

ぼーっとしたり
ぐだぐだしてるときに
自分を信頼できてないと

なぜ頑張れないのかと
自分を責めてしまう。

そうすると、なぜか
ゼンマイを巻くことはできない。

無駄な時間が際限なく
伸びていくだけ。

不思議なんだよなあ。

スマホゲーム

これだけはしていけないと
頑なに守ってきたのに

試験前なのに
テトリスを始めてしまった。

時間をムダにできるタイミングでは
ないのだけれど

なんとなく
頭にいい影響がある気がしたのた。

それからネットで調べてみたら
テトリスにはやっぱり
いい効果もあることを知った。
(元々ロシアで教育用に作られたのね)

私が実感したのは大体3つ。

ひとつめ
時間の有限性を意識しやすくなり
ぎゅっと集中できて

朝一から目がぱっちり覚めて
すぐに何かに取りかかれる頭になる
のがいい。

多分コーヒー飲むより
効く気がする。

ふたつめ
自分の瞬間的な判断が
どの程度の正確性を持っているのか
観察できること。

焦った時の判断ミスが多いこと。
きっと何においてもこうなんだ。

焦ったときは特別に
慎重にならないと、と気づかされた。

多分定期的にやれば
瞬時の判断力が上がると思う。

みっつめ
その忙しさが仮想なので
ゲームオーバーになっても
「死ぬ〜〜〜あーあ」

「なーんちゃってね。」と
自分の真剣さを
一歩ひいて見れること。

生活してると
よく考えたらどうでもいいことに
真剣になりすぎることがあるけど

それも、ある意味
どうでもいいのにね
って茶化せるような

いい意味での気楽さを得られること。
これ、すごいありがたいかも。

キラキラスポット

前はたくさん素敵な店などに
頻度多く行ってみたかったけど

今はたまでいいかな、と思う。

なんかいいところないかなって
常にわざわざ探してたころ

私の気持ちは豊かだっただろうかと
最近考えている。

自分の気分を上げてくれるところ。

受け身で素敵になんか
なれないはずなのに

満たされない気持ちを
本質的には満たしてくれないものに頼って

本来理想とするバランスから
ちょっと遠ざかっていた。

人生のほとんどは日常から
構成されている。

だから本来、
その日常の素朴な中に

自分なりのキラキラを
見つけていくことが幸せなはず。

一般的なキラキラに触れて
安心しようとして安直だった。

またそうならないように
気をつけたいな。

いつかやりたいって

それじゃ
いつまでたってもやらないから
今やってください。

っての、よく聞くけれど
確かに一理はあると思う。

だけど、私の場合は
いつかやりたいと
本当にずーーーっと思ってたら

タイミングの良いときに
すっと始められる位
ちゃんとイメージが固まってくる。

「今やらないなら
 じゃあやらないのかな。そうかもな。
 んじゃ、考えてること自体ムダ?」

 みたいに思う人がいたら

全然そんなことないよって
言ってあげたい。

だって、なにか自分の欲求に
耳を傾けることって
すごく大切だと思うから。

実利以外の気分的、精神的なメリットも
だくさんあるはずだし

ほら、スマホでいう「メモリの解放」
みたいな効果くらいはあるはずでしょ。

積み重ねたらその差は大きいよ、きっと。

進捗

自分の思考の確認目的で
ブログつけ始めて約3ヶ月たった。

自己対話ができて、すごくいい影響がある
というのが素直な感想。

自分の向かう方向が
可視化できるというか。

もともと少々揺らぎやすいタイプ。

それをネット上にさらすことで
自分で客観モードで気付けるし

気持ちを吐露できるって
なんか楽しい。

まだ誰にも紹介してないから
なんのしがらみもなく書くってのが
また自由でいいのかも。

まあ、見つかっちゃったら
それはそれでいいのだけど。

特に読まれて困る書き方は
しないしね。

今は共感を集めるよりも
自分に対する誠実さのレベルを
上げていきたい。

「生きる」を自分なりに研究したいから。

一応、ブログの効果を
個人的に確かめるための
実験的なプロジェクトとして
始めたので

まだしばらくひっそりと
言葉を紡ぐとします。

新手帳の方針

新しい手帳を買った。

今回は、仲良い人には
見せられるものにしてみたい。

前は、落としたら
ちょっと恥ずかしい位に
見られたくないことまで書いてたし

私のスケジュールは
あなたに関係ないでしょって
思ってたけど(やな人ね)

手帳を友達から隠されると
結構ショックだったりするなと。

逆に
見せてもよさそうな素振りだと
心を許してくれてるのかなあって
ちょっと嬉しくなったりする。

見られたくないことは
ケータイなり、ブログなりに
書けばいいし、

手帳は見せても大丈夫な
楽しませられるコンテンツにしとくと
自分も楽しくなれそう。

SNSで見て下さい用の自分を作ることには
もう興味がないのだけど

その代わりに
近しい人には、手帳まで見せられるような
オープンさが素敵に思えてきた。

不特定多数に対して
オープンに見せると
望まない人まで寄って来る。

そうすると
本当は好き嫌いがすごく激しいから
段々しんどくなっちゃうのよね。

かと言って全面クローズだと
人付き合いが味気なくて、寂しい。

会った時に見せてもらうと
色々楽しいし、
ためになったりなんかしたら
私だったらすごい嬉しい。

学生の時と違って
しょっちゅう会える人は少ないから
会った時に話したい事を思い出すための
ツールにもしていこう。

己を知る

神経質だから
何かに打ち込んでないと

ほんと色んなことが気になってしまって
とっても生きづらい。

ってことに気づかないくらい、
昔は興味の趣くままに生きてた。

社会に出て、
自分の目的とは全く違うし、
かつ、共感もできないことを
しなければならなくなったとき

結果を出すために
自分の中にモチベーションを
擬制していたら

やっぱり本音は正直でさ
やる気が尽きてしまったのです。

なんでもがむしゃらにやるから
消耗しちゃったてのもあるけど。

自分の中での方向性を見失ったら

本当にいろんな下らないことが
意識に入ってくるようになって

そしたら、感情が良くない意味で
揺さぶられ過ぎて
疲れ果てちゃったという、、、

まあ、自分が強いとか、
過信というか、
勘違いしてたんだろうな。

下らないと感じるような
気にしたくないことなんか
気にしない権利だって
本当は十分に持ってるはずなのに

なんか閉じ込められたように
感じてしまう。
これは私の至らないところ。

もっといい意味でわがままになって
意識を気にしたいところに集中させて、
自分を活かしてやりたい。

ほめるって

ほめるといい、みたいな風潮あるけれど

ほめるって
すごく腕が試されるというか
実はとっても難しいとおもうのよね。

美点を見つけるのが上手なのと
しょっちゅうほめるのとは
似て非なるもので全然違う。

例えば、ほらすごいでしょ?
って感じで話す人には
存分にほめたらいいと思うのだけど

特にほめられようとしてないのに
闇雲にほめられると
勝手に「かまってちゃん」に
させられたようで
がっかりしたりする。

本音で話せないような
建前ばかりの
ペラい関係性だったのかなって
さみしく感じるから。

あと、
なんでもかんでもほめてると
あなたの存在が安くなっちゃうよ、
自らをディスカウントしないでって思う。

お互いさま

常に甘えた考えの人は
ノーサンキューだけれども

どんなに相性の良い人だって
生きてる限り、気持ちに流れもあるし
いい時ばかりじゃない。

ちゃんと関わったら
こちらに都合の良いばかりの
存在なんて、ありえないと思う。

しっかり関わったら
お互い心を許す分、
面倒を掛け合う部分も出てくるもの。

むしろ、そういうことが
ないのだとしたら

例えば、前向きな話しかしないのは

それまでの関わりなのであって
実はちゃんと関わってないのかもね。

私は普段は頑張るから
心を許した存在には、

いつもは言わないような
愚痴も時々は言いたいし、
本音をさらけたい。

特別な相手には
相手にもそうしてもらえるような器を持った
シェルターのような
自分でありたいと思う。